パッケージ業界の展示会

石油化学製品を扱っている会社で、カレーやシチューに用いられているレトルトパッケージを学習したときのこと。
レトルトパッケージの仕組は簡単で、ザックリ言えば「缶詰を持ち運びやすくしたもの」です。(あくまでザックリです)
パッケージは2枚のシートを接着して袋型にされていますが、初期の頃は接着剤の匂いがキツイため、カレーにしか採用できなかったそうです。今は、接着剤~シートの改良も進み匂いが問題になることはありません、とのこと。技術革新の進み方がわかる一例です。
などと、専門家にしてみれば、今さらどうということのない話ですがとても感心してしまった。
当たり前すぎるコトながら、ナゼかこのあたりからレトルトパッケージに興味を持つようになってしまった。
レトルトカレーの箱を開けるときにも、箱から取り出すときの感触を確かめながら行う。
ややキツイと「あっ取り出しにくーい」というストレスが発生する。
この感触が少し強めにギュッとした感じだと「具材が大きいかも!」という期待感と「イモだったらハズレだな…」というガッカリ感が交錯する。
そこで思わずパッケージの上から触診をして「お肉だー!しかも、大1+中1!」となると、北極の氷壁が海に崩れ落ちるように、四角い肉が繊維に沿って縦方向に崩れ落ちてゆく噛み心地が思い浮かんでガゼン鼻息が荒くなってしまう。流石はレトルト!缶詰にはできない大仕事です。
反対にスンナリと出てしまったときには、ミンチ肉の夏野菜カレーだったか!と、カレーがゴハンの上を力なく流れ落ちて赤土が剥き出しになったハゲ山が想起されてしまう。これではカレー味のそぼろ入り汁かけゴハンじゃないか!インドやタイあたりの南方のカレーにありがちなユルイ感じに指先が震えてしまう。これは明らかにパッケージデザインの偽りです。カレーではなく、汁かけゴハンの汁とハッキリ表記してもらいたい。
やっぱり日本のカレーは、ゴハンの白壁にガッシリと留まって微動だにしないくらいの根性が欲しい。ともすれば、ソバ屋のカレーのように片栗の薄膜をまとってもよし。
パッケージといえば、箱にも不満がある。
開封後の状態をナンとかしたい。
路上で殴り倒され、そのまま放置されたように転がっている姿が無残すぎる。
売り場で存在を高らかに主張し、意味も無いままに幾度となく揉まれてもシワひとつ残すことなく中身を保護してきた役割を終え、脱力したいのはわかる。よくやった!ご苦労さん、と声もかけてあげたい。
クッキーの箱のように可愛く流用できないのもわかる。しかしアレはいくらなんでもマズイ。
レトルトパッケージだって、さっきまで湯煎されて艶々と湯上り美人だったというのに、力任せに陵辱されて痛々しい姿となっている。箱とすれば取り返しがつかない状況を目の前にして無力感に苛まされる気持ちもわかる。立っているのもやっとのことだろう。ツライ。痛恨の極みだ。
でも、このタイミングでこそグッと歯を食いしばり、箱を上着のようにそっと肩にかけてあげるくらいの気遣いは欲しい。優しさとはそうゆうものだ。
などと、このあたりまでシミュレーションして箱をデザインしていれば、中身は推して知るべしである。箱のグラフィックやネーミングに凝るのも大切ですが、五感に訴えるデザインを工夫しても面白いかもしれません。

心はどこにある?

ソチオリンピックが終わった。
流石にトップアスリートの戦いはスゴイ!
惚れ惚れする。
あのレベルまでいってしまうと、テクニックとかフィジカルとかの差は関係ない。
メンタルの差なのだと思う。
メンタル=心
「心が折れる」と、本来のパフォーマンスが発揮できなくなる。
とあるスポーツドクターが言っていた。
病気やケガ~痛みや違和感があると、心が折れやすくなる。
心が折れないようにするには、身体を強く健やかに保つこと。
心は、身体にある。
そういえば、身振りで心を表すとき胸を指す。

バニラアイス

アイデアを抽出するときには、イロイロな角度から切り込んでみたり、距離感を調整してみたり、回転や反転させてみたり、思いつく限りのアプローチで考えをめぐらしてみます。
例えてみれば、31種類のアイスクリームを全部食べてみるということです。全て味わってみて「やっぱりバニラだね!」という結論に至るのです。
これは、他のアイスには目もくれず、最初っから「バニラだよーっ!」と食べるのとは大きく違います。
結果は同じでも、プロセスがまるで異なるのです。当然ながら、プロセスが異なると意味も異なってきます。
一つ一つのアイスを味わい、特徴を掴みながら試行錯誤を繰り返して行き着いた先に「やっぱりバニラだね!」という結論には重みというか、飛ばしてはいけない階段があるように思います。
「バニラだよーっ!」のような、安易に手近で馴れた解決策で間に合わせてしまえ!といったことではなく、良い意味で徒手空拳というか暗中模索ぎみに、もがき苦しんで「やっぱりバニラだね!」と見出す基本動作から生まれるものかもしれません。これは一見、非効率で要領の悪い手順のように感じるかもしれませんが、実は「ビジュアル化」する際には大きく影響するのです。
「やっぱりバニラだね!」は、最近の「小説を映画化する」場合にも見受けられます。映画のスタッフが作者にビジュアルイメージを聞取り「ビジュアル化」してゆきます。
例をあげると、小説に「後を追っていると、すぐ先を曲がったところで忽然と姿を消してしまった」とあった場合、コレを「ビジュアル化」するには、追っている風景、時間帯、天候、通行人、服装、髪型、体格、年齢、性別、足音、息づかい、距離、曲がる方向・・・などなど、あらゆる設定を決めなければシーンが描けません。つまり「ビジュアル化」できないのです。同じ文章であっても「ビジュアル」によって全く違った印象になってしまいます。
「ビジュアル化」には具体性が無ければ成立しないのです。
アイスの事例から少しズレてしまいましたが、基本動作を見くびると「ビジュアル化」といった表現には行き着かないのは同じです。どんなに面倒くさくても時間が無くても、基本動作から逃げない姿勢で制作してゆかなければなりませんね。

未だ戦時思想は終わらない。

特攻隊。
一億火の玉。
一億総活躍。
某自動車メーカーの不正。
PTAの任意という建前の強制加入。
保育園建設反対。
この国は、一体いつになったら同調圧力の怨念から解放されるのだろう。

観察映画

想田和弘という映画監督の作品が面白い。
ドキュメント映画だけど「観察映画」というジャンルらしい。
シナリオも台本もナシに撮り始めてしまう。
自宅のPCで編集して単館で上映してしまう。
DVDレンタルも行なわない(→儲からないから)。
作品には、ナレーションもBGMも一切ない。
淡々と撮影される。
良くも悪くも「観察」している。
ただただ日常を「観察」してゆく。
でも日常には、悪意ある言葉や目を背けたくなるシーンがある。
それらを「観察」する。
久々に面白い日本映画に出会った。

Face to Face.

他人の行ったインタビューの書き起こしをしてみた。
その場に居なかった人が聴いても文字にはできる。
でも
文字にしてみるとビックリするくらいに稚拙でツマラナイ。
恐らく
ラジオのパーソナリティくらいの話力がないと到底ムリ。
でも、目線を合わせて話せば思いが伝わると思う。
とにかく会って話すこと。
原始的だけど、確実なコミュニケーション。

面白さの質

よく「8時だよ全員集合!」と「オレたちひょうきん族」のどちらが面白いか?と比較される。
どちらも面白かったが、面白さの質が違うように思う。
「8時だよ全員集合!」は、今みても面白い。
シナリオがとてもよく練られていて誰がやっても面白くなるようにできている。
「オレたちひょうきん族」は、今みるとツマラナイ。
芸人自身のキャラクターの面白さで、面白くしている。場当たり的だ。
TVは視聴率がすべてだけど、ひょうきん族のような面白さは継続には向かない。
質を見つめなおしたほうが良いかもしれない。

日用品化―2

日用品化(=コモデティ化)すると、値段で勝負するはめになる。
競合各社は値引き合戦を行なって体力を消耗してゆく。
1社2社と脱落してゆく。
最後まで戦い続けた会社も疲弊してダメになってゆく。
値引き合戦になるようなビジネスは早めに見切ったもの勝ちなのかもしれない。
グズグズしていないでサッサと次のビジネスに挑んでゆくのが得策なんだろうな。
サッサとね・・・。

気が合うか合わないか。

ナニかと悪口を言う人がいる。
言われた人も悪口を言っている。
影で、ずいぶん酷く言いあう。
相手には聞こえないように。
そこまで、お互いに疎ましく思うのは、理由はどうあれ相性の問題だと思う。
悪口を言うのが趣味でなけば、ムダだから止めておけばイイのに。

ジャンゴ

あるミュージシャンが、自らのことを「賞金稼ぎ」のような仕事だと言っていた。
曲がヒットしたら大喜びだけど、ヒットしなければ、食べてゆけない。
コンペに参加して仕事を受注してくる我々も「賞金稼ぎ」。